ザ・ライフ・オブ・ワタシ

平凡の中の華やかを

5月24日(6月11日に編集)

 ここ数年間恐れていたことがもうすぐ始まる。就職活動。ポストコロナの就活がどうなるかは未知数だけど、「例年よりは厳しくなる」と、テンション高めなマイナビTVの司会者が言っていたので、恐らく厳しくなるんだろうと思う。

 コロナウイルスがイギリスで蔓延し始めてからあっという間に帰国してしまい、5月後半ごろまでは何事もやる気が出ないモードだった。帰ってきて正解だったと自分に言い聞かせてはみるものの、コロナがなければできたことを考えてしまうと心が沈むこともあった(パリ旅行、最後の3週間で出会った新しい友人グループのこと、また遊ぼうねの約束が果たせなかった友人のこと、ちょっと好きになりかけていた人のこと)。やっと日本国内での流行も収まりはじめ、着実に日常が戻ってきている。アルバイトも10日ほど前にようやく再開して、日々のリズムを取り戻しつつある。

 先日、スーツを着て証明写真の撮影に行った。今までスーツを着る機会がほとんどなくてネクタイを締めるのも一苦労だったけれど、写真に写った自分の顔を見ると、何だか憂鬱な気持ちになった。これからわたしはだんだんつまらないにんげんになっていく。今の自分が興味深い人間だなんて全く思わなくて、就職活動に向けた自己分析をしたり、「ガクチカ*1」を考えるたびに今までの自分が社会にとって置き換え可能な人間なのだなとつくづく思わされる。それなりの高校を出て、それなりの大学に通っている、それなりの21歳男性(ゲイ)。

 Stay Homeで退屈だったので本でも読もうかと、友人と3人でお互いに勧めたい本を送り合った。友人が就職活動中の面接でこの話をしたときに「いいお友達をお持ちですね」と言ってもらえたらしい。いいお友達こと、俺。受け取ったのは平野紗季子さんの「生まれた時からアルデンテ」と筒井康隆の「残像に口紅を」。「生まれた時から~」の方は読み終わったのだけど、今まで自分がいかに食に無頓着だったかに改めて気づかされる。以前お付き合いしていた人が季節の節目節目を大事にしている方で、自分がただ直線に伸びる日々を過ごしていたことに気づかされたように、またここで自分自身の味気なさや無意識さに少し悲しくなる。それでいいのかもしれないし、それではいけないのかもしれない。でも、小さい頃に大人が言っていたことは後から考えるとやはり正しいことが多くて、「お米は農家さんのことを思って最後の一粒まで残さない」とか、そのレベルの想像力が常に心にあれば、もっと自然に食を楽しむこともできるようになるのかもしれない。

 同性愛者の出会いに優しくない社会なので(これは言い訳ではない)、デーティングアプリを使っている。他人の「好きな音楽」欄に「洋楽」と書いてあると、少し癪に障る自分がいる。そもそも洋楽(=西洋音楽)という括り自体が2020年的ではないと思っているし、回りまわってそれは日本人の英語力の低さや国際理解の遅れにも繋がっているのではないですか。知らないけど。好きな音楽に「乃木坂46 米津玄師 洋楽」などと書いてあると何だよと思う。それなら私は「邦楽」と書こうかと思うけど、結局、「宇多田ヒカル」とか人気があってセンスもいいと思われがちな人を書いてみる。一番ずるいのは自分。

 ここ最近は木村花さんの訃報や、George Lloydさん殺害に端を発する抗議運動などについてSNSでよく見かけた。木村さんについて言えば、自分は「TERRACE HOUSE」も観たことがないし、彼女のことも訃報を耳にするまで知らなかったけど、KARAのク・ハラさんや、「Love Island」のMike Thalassitisさんとか、世間のバッシングによる死が近ごろ目に余る。結局、志村けんさんのコロナウイルスの死がインスタントな「教訓」にされてしまったように、俗に言うアンチの人たちは居なくなるはずもないのだけど。「死を無駄にしない」って何なんだろう。次は木村さんのアンチ叩きが始まったらしく、もうやめてくれよと思う。「彼女の死を無駄にしない」と声を上げる人たちが善意を武器に他人を苦しめてしまう。「自粛警察」だとか捻じれた善意がまた人を傷つけることが最近多くて、それは気づかぬうちに自分も加担しているのかもしれない。結局、全員が幸せになれる方法はないのだけれど、少しでもみんなが幸せになれたらいい。木村さんを死に追いやった人たちはもしかしたら自覚がないまま終わっていくのかもしれないけれど、私たちは言葉で人が死ぬことを絶対に忘れてはいけない。言霊って言葉をつくった昔の人はすごい。

*1:学生時代に力をいれたこと